- sample 『モノクロ』 -
赤、青、黄色。 この世界は数え切れない色で溢れているらしい。
でも、オレにはそれが分からない。 物心つく頃には。 オレの目に写る世界はモノクロでしかなかったから。
黒、白で作られた灰色の世界。 でも、その二色も周りから教えてもらって、たぶんそうだと言われたものだ。 だってオレはこの色しか知らないから。それが黒と白なんだって言われても、そうなのかと思うしかない。
この目のことで、信号だとかそういうところでちょっとした不便はあったけれど、正直周りのみんなから同情されるほどの不都合は感じてはいない。 視力自体は正常なのだから。
ただ少し。 時々寂しく思うのはみんなと同じ感覚を共有できないことだ。
瑞々しく艶やかなりんご。 爽やかな青空。 鮮やかな夕日。
カタチの美しさや、おいしそうな匂い。そして綺麗な音。 それなら同じように感じることもできるけれど、オレには言葉でいくら説明されても色だけは理解することができない。 それが少しだけ寂しい。
みんなにはどんな世界が見えているのだろうか。 ふっと、そんな風に思うときもある。 ないものねだりでしかないとわかってはいるのだけど。
でも。 あの人の曲を聞いたとき。 オレの世界に色が生まれた。
失われたはずの色が、オレの目に焼きついた。
【中略】
ふらつく足で立ち上がる。玄関へ向かおうとして、戻ってきた阿部と鉢合わせた。
「おいっ、どこに行くつもりだ!」 「帰る……」 「帰るって…それじゃ帰れるわけねーだろ。車で送ってやるから、少し落ち着くまで横になってろ」
身体を支えられる。 甘い、香水の匂い。
「触らない、で!」
三橋は阿部を突き飛ばした。 壁にぶつかり、鈍い音がする。
「…っ! おいっ!」 「来ないで! オレに近づかないで!」
あの女性を抱きしめた腕で、優しくしないで欲しかった。
「それは、どういう意味だ…三橋」
阿部の視線がするどくなり、抑えきれない怒気が滲む。
「そのまんまの、意味、だ。オレは、もうここにはこない。阿部くんには、二度と近づかない。これで、サヨナラだ」
歪んだ顔で笑う。 これから先、阿部の隣で自分を偽ることなんてできやしない。阿部が誰かの手を取るたび、その微笑みを向けるたび、三橋の心は壊れていくのだ。 修復できないほど壊れてしまったら、自分がなにをしでかすかわからなかった。
「本気なのか?」 「オレは、本気、だ」
唇を噛み締めて虚勢を張る。
「……ごめん、ね。さようなら」
これで最後だ。 阿部の顔を目に焼き付けて背を向ける。そのまま立ち去ろうとした三橋の世界が反転した。 壁に叩き付けられた衝撃。背中がじんじんと痺れる。 痛みにくらんだ目を瞬かせれば、ぞっとするほど冷ややかな顔をした阿部が、三橋の襟首を掴んで締め上げていた。
「そうやっておまえもオレを裏切るんだな!」
(裏切る? オレが、阿部くんを?)
反論したくとも、締め上げられているせいで声が出せない。
「来いっ!」 「ぁ、べ…けほっ……はっ」
そのまま引きずられる。もつれる足でつれていかれたのは、いつもの地下室だった。
「ぅ、ぁっ!」
容赦のない力で、壁に押さえつけられる。むき出しのコンクリートの壁はひやりと冷たく、触れた場所から三橋の体温を奪っていく。
「いいざまだな」
耳元で囁かれ、背筋に震えが走る。阿部に背を向けている格好のため、阿部がどんな表情をしているのかわからなかった。 ただ、本当の意味で阿部を怖いと思ったのは、これが初めてだった。
「あべ、くん。……なにを…?」 「こうするのさ」
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